日本女子プロ将棋協会

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REPORT 2010.08.02

中倉彰子初段-林葉直子さん観戦記(1)

観戦記(1) 15年ぶりの復活
                   
                             辰巳五郎
 午後12時45分、林葉直子さんが対局場へ登場すると、一斉にフラッシュがたかれた。テレビカメラも林葉さんの姿を追っている。取材陣は30名近くの人数。
 LPSAは、この日の記者会見を円滑に進行するために広告会社のサポートを受けており、前々日には予行演習を行うなど入念な準備をしている。
 林葉さんの撮影は5分間行われ、12時50分には中倉彰子女流初段が入場。再び一斉にフラッシュがたかれる。
 
 両対局者が席について、駒箱を開けるときに、二人の会話があった。
 上位者が駒箱を開けて駒を取り出すのが作法だが、中倉女流初段が林葉さんに「どうぞ」とうながした。林葉さんは笑顔で、「それはプロの先生が」。
 中倉女流初段が駒を取り出して、中倉女流初段、林葉さんが交互に駒を並べていく。
 林葉直子さんが15年ぶりに戻って来た。
 日レスインビテーションカップへの主催者特別招待選手としての参加なので、将棋界への復帰ということには即つながらないが、林葉さんにとっても将棋界にとっても、大きな出来事であることは間違いない。
 林葉さんへ、LPSAを通して日レスインビテーションカップ出場のオファーがあったのは4月下旬のことだった。林葉さんはこれに快諾して、対局は7月に設定された。対局相手は中倉彰子女流初段。
 思えば、林葉さんにとっては長い15年であり、波乱に富んだ15年だった。


中倉彰子女流初段と林葉直子さん
 中倉彰子女流初段は1977年3月2日生まれ。お父さんが大の将棋好きで、“彰子”の名は、時の蛸島彰子女流名人にあやかってつけられた。中倉が将棋を覚えたのは6歳のとき。妹(中倉宏美女流二段)と一緒に将棋の駒にさわって遊んでいるのを見たお父さんが教えてくれた。
 この頃、林葉さんは15歳。前年に蛸島から女流王将を、その年には蛸島から女流名人位を奪取し、二冠王となっている。
 1970年代が、蛸島彰子、山下カズ子をはじめとする女流棋士1期生が牽引し女流棋界の土壌を作り上げた創成期とすると、1980年代は、10代の林葉直子、中井広恵が大活躍して、その土壌から芽を出す飛躍期だった。
 中倉は、1991年と92年の女流アマ名人戦で優勝し、1992年に女流育成会に入会する。そして1994年4月に高校3年で女流棋士(女流2級)としてプロデビューする。
 中倉がプロになった時の林葉さんは、タイトル獲得15期、将棋大賞女流棋士賞6回受賞のスター棋士で、日本中で「林葉直子」の名前を知らない人はいないほどだった。
 中倉から見たら、「林葉直子」は憧れ、あるいはそれ以上の存在だった。


林葉さんの波乱
 ところが、同じ年の6月11日、新聞、スポーツ紙、テレビなどで、林葉さんが失踪したと一斉に報じられる。
 林葉さんは5月29日に、心身ともに疲労を感じ極限状態にあるのですべての活動を停止ししばらく休養したい、棋士としての処遇は日本将棋連盟理事会の決定に従うという旨の休養願いを提出していた。理事会は特例としてこれを受理したが、すでにスケジューリングされている対局について林葉さんと話し合う必要があった。しかし、林葉さんとの連絡が取れなかったため中途半端な状態が続いた。このとき林葉さんはロンドンへ行っていた。
 6月9日、10日の対局に林葉さんが現われなかったことで、6月11日の失踪報道となる。サイババに会いにインドへ行っているというデマまで流れた。林葉さんにも脇の甘いところはあったが、様々なボタンの掛け違いで、休養願い提出報道であるべきところが失踪報道として独り歩きしてしまった。このような大騒動になるとは思ってもいなかった林葉さんは、7月中旬に急遽帰国し、記者会見を開くことになる。
 私は、林葉さんが人の悪口を言うのを一度も聞いたことがないが、「千駄ヶ谷近辺には行きたくない」とだけは数年前まで林葉さんは語っていた。彼女の夢を育んできた地が、思い出したくない場所に変わってしまったのだった。
 林葉さんにも連盟理事会にも悪意はなかったものの、結果的には林葉さんにとって極めて不幸な出来事となった。


退会
 林葉さんは、1995年8月24日に日本将棋連盟に退会届を出した。将棋が嫌いになったわけではないが、情熱が冷めたという理由だった。
 日本将棋連盟で退会記者会見をしたその夜、林葉さんは新宿の料理店で行われていた羽生善治六冠(当時)と畠田理恵さんの婚約お祝いの席へ駆けつけている。林葉さんは羽生六冠の実力と人間性を高く評価しており、お別れの挨拶も兼ねていた。


その後の15年
 中倉は、1997年と1999年にNHK将棋講座の聞き手、2000年度から2002年度までNHK杯将棋トーナメントの司会・聞き手を務めるなど、その清楚で明るい笑顔は多くのファンを魅了した。しっかりとした外見からは想像もつかない天然キャラクターであることも人気の一因となった。
 中倉彰子・宏美姉妹がヒントとなって2001年に制作された女流棋士姉妹が主人公の映画「とらばいゆ」(主演 瀬戸朝香)では、瀬戸朝香への将棋演技指導、記録係役での出演など、姉妹で活躍している。2002年には、ソロシングルCD「Tearful Smile」をリリース。インターネットラジオ「Positive de GO!」(2007年5月~2008年6月、2010年)では中倉姉妹のトークが好評を博した。
 昨年の日レスインビテーションカップでは、ベスト4に勝ち残っている。
 私生活面では、2003年の8月に中座真五段(現七段)と結婚。今年の6月11日には男の子が産まれ、中倉は三児の母となった。
 一方、林葉さんは、退会後は波乱万丈の15年間を迎えることになる。
 1998年、週刊文春で林葉さんの不倫スキャンダルが持ち上がる。2007年のゲーム誌のインタビューで林葉さんは、ニューヨークに遊びに行く直前に電話をかけたのがたまたま雑誌の編集をやっていた友人だったことがきっかけとなって、不倫問題が発覚してしまったと語っている。また数年前の週刊文春の取材回顧特集では、テレビを見て事の推移に驚いた林葉さんが「あれでは(先方が)可哀想すぎる、これからすぐに謝りに行く。もうこれ以上記事は載せないでほしい」と号泣したこと、編集部が説得しそれを止めたことなどが編集部によって書かれている。
 その後、写真集を出したりしていた林葉さんだったが、転機は2004年に訪れる。
 ひとつは、月刊漫画雑誌で将棋をテーマとした「しおんの王」の連載が始まったこと。原作は“かとりまさる”、これは林葉さんのペンネームだった。小説のつもりで原稿を編集者に見せたら、面白いので漫画の原作にしようということになったのだ。かとりまさる=林葉直子であることは1年以上極秘とされていたが、退会してから9年間、将棋とはまったく関わりを持たなかった彼女が将棋と少しでも向き合った瞬間だ。
 もうひとつは、六本木に「ウーカレー」というインド料理店を開店したこと。店名は「うー、辛え」が語源。内装はミニクラブの居抜きで、インド人シェフによる本格的インドカレーの店だった。彼女自ら動き回り、お客さんの席へ着いて会話もした。
 経営は苦しかったが、望外の出来事もあった。どこで聞きつけたのか、林葉さんと同年代のプロ棋士や後輩の女流棋士が店に通い始めてくれたのだ。林葉さんは社交的な性格だが、自分から連絡をして人を誘うことはしない。ましてや味の良くない別れ方になってしまった将棋界に対してはなおのこと。それだけ、彼女の人柄を慕って訪ねてきた棋士や女流棋士が多いということになる。
 そして、懐かしい顔を見ているうちに、林葉さんの心の中に将棋を指すのを再開しようという気持ちが芽生えてきた。それまでは、将棋の盤駒や新聞の将棋欄などは見ないようにしていた。見ると、将棋をやりたくなったり寂しくなったりするからだ。
 店には将棋盤と駒が置かれ、将棋が指せるようになった。
 結果として、赤字が続いたので「ウーカレー」は翌年の11月に閉店することになるが、林葉さんにとっては、昔の仲間に会えたこと、将棋を再開したことなど、大きな心のプラスになった。  
 将棋に対する思いも復活してきた。2006年には将棋ペンクラブ会報で、作家の高田宏氏との対談に林葉さんはゲストとして登場している。
 しかし、この年、様々な事情から林葉さんは自己破産をすることになる。
 そして2007年から再出発。「しおんの王」がでテレビアニメとして放送され、DVD化、ゲームソフト化もされた。
 ところが、「しおんの王」の原稿を書き終えた2008年、林葉さんは体調を崩して、入院を半年ほどしていた。退院後は福岡へ戻り、静養したり、将棋好きな寺の住職と将棋を指したりの日々が続いた。


林葉さんの復活
 現在、お母さんと一緒に住んでいる林葉さんだが、今年は将棋への関わりが増えつつある。
 2月には、日本将棋連盟の顧問弁護士であり将棋ペンクラブ会長の木村晋介氏との飛車落お好み対局が行われ、その模様が将棋ペンクラブ会報に掲載された。
 また5月には、千駄ヶ谷の将棋会館で開催された将棋ペンクラブ交流会に、斎田晴子女流四段、安食総子女流初段、松尾香織女流初段とともに林葉さんはゲストとして参加している。
 当初は、退会記者会見以来15年ぶりとなる将棋会館へ行くことを少しためらっていた林葉さんだったが、いったん中へ入ってしまい、将棋を指したり、昔タイトル戦で戦った斎田女流四段などと会話をしたりしているうちに、「千駄ヶ谷近辺には行きたくない」という長年の思いも氷解したということだ。林葉さんも骨の髄まで将棋が好きなのである。
 この日、林葉さんは、日レスインビテーションカップに向けて、連盟の販売部で一冊の技術書を購入した。現役時代は、棋譜や定跡をまったく研究しなかった林葉さんだが、15年のブランクを少しでも埋めるために手に入れた本は何だったのか?
 書名は、明日の観戦記でお伝えしたい。